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村上春樹著 アンダーグラウンド
 この本はオウム真理教による地下鉄サリン事件の被害者達へのインタービューで構成されている。

p34運転手役の新寛はサリンの入ったポリ袋を包むための新聞を手に入れた。「聖教新聞」と「赤旗」である。……林は二つのうち「赤旗」の方を選んだ。宿敵である創価学会の「聖教新聞」を使ったのでは、あまりにも見え見えで逆効果だからだ。

p416 吉秋満さん「ただオウムの人たちに責任というものが通じるのでしょうか。被害者の気持ちが理解できるのでしょうか。
 でもたとえ少しでもいいから、自分たちの犯した罪を自覚して欲しい。私はそれをせつに願っています。私はやはり彼らに責任は取ってもらいたい。そしてその後に更正をするのなら、更正してもらいたい。「死ね」とかそういうことを言っているんじゃありません。ただ自分のことは自分の力で建て直さなければなりません。私はそう思います。これが基本です。」


この吉秋さんの考え方は私たち創価被害者も同じ気持ちではないだろうか?

57人ものインタビューを読んで、「もし僕がそこにいなかったら、別の人がかわりに袋を拾い上げてますよ。やっぱり仕事というものの責任はまっとうしなくちゃいけない。知らん顔はできないでしょう」と西村住夫地下鉄職員の言葉に、仕事に対する責任感、善良さをひしひしと感じた。日本人のおとなしさ 危機感の無さも同時に感じたが、「まさか、この日本に毒ガスがまかれるなんて」と私も現場にいたら信じることが出来なかっただろう。
 目の痛み 頭痛 吐き気 体力の低下 疲れやすい 物忘れなど毒ガスを吸ったことによる肉体的苦痛の他に 人混みに出られない、電車に乗れない 鬱と心の病も発症している。

最後に「目じるしのない悪夢」---◇私たちはどこにむかおうとしているのだろう?
と村上春樹氏が文を書いておられる。

p692 つまりオウム真理教という「ものごと」を純粋な他人事として、理解しがたい奇警なものとして対岸から双眼鏡で眺めるだけでは、私たちは何処にも行けないんじゃないかということだ。たとえそう考えることがいささかの不快さを伴うとしても、自分というシステム内に、あるいは自分を含むシステム内に、ある程度含まれているかもしれないものとして、その「ものごと」を検証していくことが大事なのではあるまいか。

私はよく、「あんな異常なものにつきあえるなんてあなたもおかしい」と部外者からは言われ 創価学会員からは「退会したら良いではないか、ほっといてくれ」と言われる。
騙されて入会させられ、私には何の落ち度もなかったのに噂をまかれ「あの人とはつきあうな」と隔離され、外の人間からも「創価学会に入っていた人?」という目で見られる。世間知らずで人を疑わなかったと言うことが私たち退会者に落ち度があると言えば最大の落ち度だろう。 

 私はこんな異常なシステムが何故存在できるのだろうか? 何が間違っているのだろうと検証せずにはいられなかった。また迷い込み困っている人たちには「こうすれば逃げ場があるよ」と伝えずにはいられなかった。

 今創価学会を調べている為にこれを読んでいるあなた、生半可な気持ちで創価学会に近づかないほうがよいと断言する。

p697 「システム(高度管理社会)は、適合しない人間は苦痛を感じるように改造する。システムに適合しないことは『病気』であり、適合させることは『治療』になる。こうして個人は、自律的に目標を達成できるパワープロセスを破壊され、システムが押しつける他律的パワープロセスに組み込まれた。自律的パワープロセスを求めることは、『病気』とみなされるのだ」(アメリカ連続小包爆弾犯人ユナボナーが『ニューヨーク・タイムズ』に掲載した論文より)

 これは創価学会というシステムの中でがっちりと育てられた人は私たちのように創価システムに適合出来ない人間こそ『病気』であり仏から見捨てられた可哀想な退転者となる。しかしまず私たちは社会ルールと法の中で暮らしている。その枠組みを「仏のため」と簡単に逸脱する人たちは私たちにとっては 恐ろしいカルト教団にしかうつらないし、社会的に抹殺されてしかるべき団体となる。

p699 オウム真理教に帰依した人々の多くは、麻原が授与する「自律的パワープロセス」を獲得するために、自我という貴重な個人資産を麻原彰晃という「精神銀行」の貸金庫に鍵ごと預けてしまっているように見える。忠実な信者たちは進んで自由を捨て、財産を捨て、家族を捨て、世俗的価値判断基準(常識)を捨てる。まともな市民なら 「何を馬鹿なことを」とあきれるだろう。でも逆に、それは彼らにとってある意味ではきわめて心地の良いことなのだ。何故なら一度誰かに預けてしまえば、そのあとは自分でいちいち苦労して考えて、自我をコントロールする必要がないからだ。

p700 アメリカの作家ラッセル・バンクスは小説『大陸漂流』の中でこのように述べている。

「自我より大きな力を持ったもの、たとえば歴史、あるいは神、無意識といったものに身よ委ねるとき、人はいともたやすく目の前の出来事の脈絡を失ってしまう。人生が物語としての流れを失ってしまうのだ。」(黒原敏行訳)

(中略)
 ところがあなたは今、誰か別の人間に自我を譲り渡してしまっている。あなたはそこで、いったいどうすればいいのだろう?
 あなたはその場合、他者から、自我を譲渡したその誰かから、新しい物語を受領することになる。実体を譲り渡したのだから、その代償として、影を与えられる
(中略)
 麻原彰光にはそのようなジャンクとしての物語を、人々に(まさにそれを求める人々に)気前よく、そして説得力を持って与えることができた。…それは粗暴で滑稽な物語であった。
(中略)
それがオウム真理教=「あちら側」の差し出す物語だ。… 実際の話、私たちの多くは麻原の差し出す荒唐無稽なジャンクの物語をあざ笑ったものだ。そのような物語を作り出した麻原をあざ笑い、そのような物語に惹かれていく信者たちをあざ笑った。(中略)

 しかしそれに対して、「こちら側」の私たちはいったいどんな有効な物語を持ち出すことができるだろう?


 創価学会に嵌っている人たちに「一刻も早くそこから離れるべきだ」と私は言ってきた。たとえ、創価学会という権力の中でぬくぬくと守られ育てられた人が、一度創価学会はおかしい、こんな行動を取っている自分もまた狂っていると気がつき離れたとしても、社会的にも孤立し精神的に追いつめられ地獄の苦しみを経験すると解っていてもだ。物語は全てを捨てきって自分で苦労して作り上げるものだ。

 これから創価学会は衰退の一途をたどるだろう。
池田大作氏に与えられた「物語」を否定された創価学会員達はどのような行為に及ぶのであろうか?

一緒に狂えないものたちは一刻も早く脱出すべきであろうと 警告する。

最後に村上春樹氏がオウム真理教の選挙活動を見かけて、名状しがたい嫌悪感と理解を超えた不気味さをもって通り過ぎた体験に触れたとき、私も村上春樹氏と同じ「こちら側」の人間だと安堵した。創価学会員も同じものをみて不快を示すだろうがそこには邪教と切り捨て創価に対する選民思考があり、一般人のように居心地の悪い罪悪感を感じないだろう。
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【2009/06/11 16:26】 | カルト | トラックバック(0) | コメント(0)
創価学会体験記2


選挙前になると電話をかけてくる 不思議な人達。そんな創価学会を体験してみました。(中傷と信仰賛美は 削除対象になります)

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